認知症ケアをめぐる議論と、現代社会との深い断絶

今日は仕事で認知症にかんする研修を受けてきましたよ。
昔看護師、保健師を経験してきた60後半ぐらいの女の方が講師でした。その方いわく、
認知症の人も日々自分がどういう存在であるかが薄れていく恐怖と隣りあわせで生きている、
認知症の人には頭ごなしで否定してはいけない、どんな内容でも受容し共感してあげるのが大事だ、
認知症の人には昔の記憶を持ち出して会話をしてあげるのがよい、(回想法(ぐぐれ)的なやつ)
認知症の人も基本的な言語コミュニケーションの体系や、その人が持っている昔からの経験的な記憶は忘れているわけではないので、
それに直にアプローチしてあげる(たとえば味噌の作り方を教わる、「おばあちゃん昔は○○作るのがうまかったらしいね、私にも教えてください」という語り口で接する)等すると、その人もいきいきと返答してくれる、
認知症になったことを社会にカミングアウトできる環境が日本にはまだなくて、その状況が認知症患者とその家族を精神的に追い詰めて事態を深刻化させているので、
カミングアウトした上でみんなでその人を支えあえる環境が必要である、
昔ながらの助け合いの付き合いをずっと続けてきた地域社会はその環境として大いに期待されている(その人の昔のことをよく知っている近所の人がたくさんいるため)、
よって認知症を地域社会ぐるみで包括的に見守れる社会の構築が求められている等々
ざーっくり言えば「地域ぐるみで認知症を見守ろう」的な内容の公演だったんです。
 
まぁこの方法論はたとえば俺んとこみたいな田舎なら通用するかも知れん。が、ほんまにやれ核家族化だ個の時代だ社会の流動化だ非正規雇用グローバル化だ移民流入だといわれている中で、
都会になればなるほど当然この地域的な牧歌的*1なつながりなんて薄れていくに違いないだろうし、
現に田舎だって過疎化が進みに進んでるわけだし、
一生涯にわたって記憶を共有できる昔からの隣人、地元の友達なんてこれからの時代・これからの世代少なくなっていくに違いない。
つまり、「認知症を見守る」べき「地域」、もっと踏み込んで言えば「地縁・血縁」みたいなものも、あるいは「昔の記憶」を想起させる時のバックボーンとなる、いわゆる「大きな物語」も、すでに幻想と化しているのでは?という命題がひとつあって、
もっと言えば、こういう時代だからこういう時代特有の、ネットでこういうコミュニケーションを若者はとってて、物語ではなくネタや繋がりを求めてかくかくしかじかのようなコミュニケーション形態になっていくよー、ヒウィッヒヒーだよー、監視社会だよーつながりの社会性だよーっていう議論がある、
 
 その2つの世界の間での社会をめぐる構築の仕方に関する根本的な考え方が、あまりにも断絶していて不安になるんですよ。ひょっとしたら、それはそっくりそのまま都会と田舎の間での断絶、ネットとリアルの間での断絶あるいは世代間の断絶という風に捉えようと思えばそれもできるかもしれない。それならそれでいい、けどもっと深いところでの断絶が、あるような気がしてならないのです。
 お互いに片方の世界はもう片方の世界のことをよく知らないし、知らないゆえに見えないものとして議論が進んでしまっているような気がして、いつかこの断絶がとんでもない帰結に結びつくのではないかって思って、逆にそういう意味で面白く聞かせていただきました。
 しかし今の田舎はまだまだ共助、互助的な助け合いの精神は根付いているわけだし、もしかしたら今現状のことは心配しなくてもいいかもしれない。「認知症は地域ぐるみで見守るのが解決策だ」という大前提がある、というスタンスに立てば、もっと憂慮すべきは、今の僕たちの世代が、じじいばばあになって、認知症になったときなのかもしれない。
 ってか認知症に限らず、ロスジェネ以降ぐらいの世代が高齢になって介護でも受けるような身分になったときのことを想像すると、ぞっとする。もう阿鼻叫喚の世界が待ってると思うんだわ俺は。引きこもりの高齢者とか、二次元しか愛せない高齢者とか、いったいどうするんだろう。

*1:実際今日の話も多分に牧歌的だったような、昔の人はみんなクリエイティブですごかったんだよ、それに引き換え最近は云々って言う内容が目白押しだった