昔の文化の底力、かたやあぶくのように生まれては消えていく現代文化の個人的悲観論

 今日は俺にとってものすごく貴重で異文化な体験をしてきました。だから酔いと興奮が冷めやらぬうちに書こうと思います。
 今日、友達の誕生日パーティー祇園のほうであったんですよ。場所は、幹事の人が働いている、オールディーズを演奏する大き目のバーだったんです。
 俺はそこでカルチャーショックにも似た衝撃を受けたのです。
 もちろん今まで祇園に行った事なかったって言うのもありますけど、それより何より、オールディーズやばい。かっこよすぎる。レットイットビーとか、ハブユーエバーシーザレインとか、いわゆるエレキギターでテケテケテケテケ、のってけな音楽ばかりが演奏されてて、最初はふーんって傍観してたんですけど、だんだんおっさんが踊り始めたんです。そのおっさんの踊り具合がむちゃくちゃかっこいいんですわ。例えば、音楽に合わせて、クロールのように腕を動かしてみたりとか、妙に後ろを向いてみたり、回転してみたりとか、チークタイムがあったりとか、いってみれば1世代前のディスコとかのノリなことは間違いないんですけど、それを一糸乱れず踊るんです。おっさんが。みんなチェックのシャツをズボンにインして、ハンチングとかかぶったおっさんが、一糸乱れず踊るんです。ボックスステップとか、ツイストとか踏んだりして。正直、かっこいいと思いましたよ俺は。ギターがtktktktktktkってなるところなんかはボーカルの人とおっさんがいっせいにしゃがみこんだりするんです。その連帯感に俺たち若い連中も飲まれちゃって、気がついたら、一緒になって踊ってました。
 世代的には1世代前の音楽かもしれないし、クラブ全盛の現代にあってそんな音楽は古臭いという先入観が今まであったのですが、なかなかどうして、実際そういう場に立ってみると案外楽しかったりするもんなんだなーということを強く感じました。
 俺たち大学生世代にとっては過去の遺産かもしれないけど、おっさんたちにとって見ればそれが青春の一ページだったりするわけで、そういう青春の一ページが形を変えないまま今にまでずっと継承されていることが俺にとってはそもそもの新鮮に感じた要素でした。
 かたや、さっきも言ったように今はクラブミュージックが全盛を向かえ、jazztronikdaishi dancestudio apartmentをはじめとしたDJが幅を利かせていますが、じゃあそういった音楽文化が、このオールディーズみたいに40年後とかにも親しまれているかといわれたら、不安になりますもん。例えば、40年後もハレ晴れユカイが踊られてるかって聞かれたら、不安になりますもん。40年後もフタエノキワミ、アッー!とかのニコ動で生まれた文化が若者世代にも理解を示せるかと聞かれたら、不安になりますもん。昔ほどみんなが同じ方向に熱中しなくなっちゃった現代の文化にとってこれはある意味、死活問題を俺たちに突きつけているのではないでしょうか。
 つまり、今流行ってる文化や風俗なんかが、世代が下がっても受け入れられるものであり楽しめるものでありうるかどうか、ということです。俺はそこを分かつ一つのボーダーラインが、バブルであり、1980年代だったんじゃないのかなと思うんです。
 80年代にはたけのこ族が一世を風靡して、バブル時代にはジュリアナ東京とかマハラジャとかのディスコ文化が最盛期を迎えていたわけですが、今やその文化は死に体となっているではありませんか。長く楽しめるコンテンツが減った代わりに、みんながその場だけ楽しめる文化みたいなものが、台頭してきたのが、まさにこの時期ではないのかなという風に思います。
 コンテンツの賞味期限は確実に、日増しに短くなってきています。昔なら数ヶ月は同じ歌謡曲を聴いてても満足だったものが、今はオリコンチャートも、ニコニコ動画のランキングも、めまぐるしく移り変わる時代です。それだけに、今日の、この世代を超えた体験というのは、貴重なものだったし、昔の文化の底力のようなものを感じずにはいられなかったわけです。
 文化の消費サイクルが早まること自体は、別段悪いことではないとも思うのですが、それは巡り巡って、俺たちの世代の文化を後世に何も残さない事態を招きかねないのではないか、というのが今日の体験を通じて思った次第であります。
 アーキテクチャによる情報の効率化によって、「情報」が「文化」に昇華しない事態が起こっているのではないだろうかという話でした。