形骸化する「大学自治」に代わるものとは?

ネオリベ化する公共圏 壊滅する大学・市民社会からの自律
明石書店2006年 すが 秀実, 花咲 政之輔 著

ネオリベ化する公共圏

ネオリベ化する公共圏

 2005年、早稲田大学文学部キャンパス内において、早稲田大学の再編成に反対するビラをまいていた学外の若い男性が、大学教職員に取り囲まれ、彼らの一人によって「私人逮捕」されたうえに、警察に引き渡されるという事件が起こった。この事件を中心の議論のテーマに据えて、社会のネオリベラリズム化・監視/管理社会化にも言及しながら、現代における「大学自治」の機能不全に焦点を当てた本である。
 この本によれば、かつての大学は、ミシェル・フーコーの言う「規律/訓練型」の体制が、それなりに円滑に機能していた場であった、という。つまり、かつての日本的資本主義との相互補完的な市民闘争を通じて、「平和と民主主義」の精神を持った「良き市民」観を形成するための場として、大学が存在していたというのだ。大学自治はまさにその延長線上に存在していたものであり、それはしばしば全学連運動や全共闘等の学生紛争として、ラディカルな形で表面化していたといえる。
 この本が問題にしているのは、現代の大学における、そうした「規律/訓練型」の学生自治的な公共空間の機能不全である。この機能不全の根本の原因となっているのが、社会のネオリベラリズム化であり、「規律/訓練型」社会から「監視/管理型」社会へのグローバル規模なシフトである。そして大学も今や、学生による「規律/訓練型」の自治から、大学による「監視/管理型」の統治を採用している点を筆者は指摘する。
 つまり、今や大学の秩序を作っているのは大学自身なのである。早稲田大学の事件に話を戻すと、大学の方針に反対する者を大学の教職員が捕らえたのも、大学教職員が大学によって管理された存在だからである。かつてならば、大学の中に警官が導入されることなんて言語道断だったはずである。
 学生の自治会・サークル、あるいは教授会は現在ももちろん存在しているが、それらは今や大学によって監視/管理される存在であり、規律/訓練型の自治が行われているとは言いにくい。「すでに明らかなように、現在の大学は自治的に規律/訓練する組織の存在を必要とはしていない。むしろそのような存在は新しい監視/管理型の大学にとっては邪魔なのである」。
 「学生自治」を大上段のスローガンに毎年行われる学生大会も、現状は学校が生徒の要望を聞くための場としての役割以上の機能は果たしていない印象を受ける。そもそも学生自治という言葉のもつ意味が今や薄っぺらなものになっている。
 しかし、こうした監視/管理型の体制を、学生も教職員も内面化していることもまた、否定できないことは事実である。今やポストモダンと呼ばれる時代の趨勢の中で、大きな物語の終焉が叫ばれ、イデオロギー対立もまた終焉を迎えた現代において、この本の主張にあるような、かつてのような規律/訓練型の自治をそのまま当てはめるというのは無理な話だと思う。かつてのような「規律/訓練型」の大学運営の方法論はもはや成り立たない、というところから、議論を始めなくてはならない。
 「監視/管理型」の権力というのはそのまま「環境管理型」の権力と言い換えることが出来るだろうが、そうした、誰もが「権力に飼いならされた存在」*1たる現代において、権力への異議や不満申し立てはどのように行われうるか、非常に考えさせられる本であった。
 

*1:これを「動物化」って呼ぶんだろうね。違うかな?