「見返してやる」という意識で自分を奮い立たせるのは善か否か

 かなり今更ですが、数日前のid:Masao_hateさんのエントリ「マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話」を読んで。
 自分は、今まで思春期の頃から劣等感が強く、「マイナスをゼロにする」ことに動機づけられ、「人生を楽しむ」ための修行をこれまで積んでこなかった人間であるという自覚がある。特にその自覚を持ったのは高校生のころだろうか。
 高校って、大体どこもそうだと思うんだけど、男も女も、やんちゃ度とかに対応したグループのヒエラルキーみたいなものができがちで、しかもそれぞれのグループは互いに干渉したがらず、グループ間の移動もあるわけでもなく、なんとなくヒエラルキー上の人間は下の人間を抑圧しているところがある。なんかもう僕はそういう内輪なノリとか、閉鎖的な雰囲気とか、理不尽に馬鹿にされるのとか、だいっ嫌いだったんですよ。wしかも何を根拠にそのグループができてるのかわかったもんじゃない。大体そういうグループの構成員って同じ中学だったりとかするもんで、そういう中学時代からのコネみたいなものが無かった僕はそういうノリになじめずに大変だった記憶があります。唯一の友達がリプトンのアップルティーみたいな。w*1今考えたらそんなんも高校生特有のものなのかもしれないって思いますけどね。
 そういう上層ヒエラルキーからの理不尽な抑圧とか劣等感みたいなものにどうやって耐えればいいのか。
 そのときに「いつか(○○を)見返してやる」という意識が自分の中で芽生えた気がする。半分ひがみ、半分は純粋な敵意だった。このリア充め!みたいな。だからもう特に大学受験のころとかそういう意識を内に秘めながら勉強してた記憶があります。でもそういう敵意は絶対にむき出しにせず、うわべには努めて社交辞令的に丸腰的に友好的になろうとした。でも心の中では馬鹿にしていた。もうね、見下していたに近い。黒いですね。これも高校生活の中で身に付けたある種の処世術だろうと思いますが。失うものが無いと這い上がるしかないので。そういう風に考えないと到底やっていけなかった。自分で言うのも気が引けるけど、結果学校の中では成績は悪くは無かったし、やんちゃな人たちよりかは多少いい大学に入れた。
 大学に入ってからはもちろん自分の周囲の環境は格段によくなった。いい友達にも会えたし、楽しいこともたくさん起こるし、打ち込めるものも見つかったような気がするし。でもどうしても消えなかったものがひとつ。それが高校からの「見返してやる」習慣であり、「マイナスをゼロにすることで自分を奮い立たせる習慣」である。ただ高校のころに比べるとそこには敵意は無く、ひがみの割合がほとんどになった。気がついたらいつも自分で、目の上のたんこぶ、何の罪も無い仮想敵、一方的なライバルみたいな物を作っては「だれそれのことを見返してやる」と心の中で思うことで自分を奮い立たせる。いまや敵なんていないのに!そしてそれは決して口には出さない。思うだけである。一方的な切磋琢磨状態とでも呼ぶべきか。そのやり方が今になっても抜けきっていないのは、まさしく「ゼロをプラスにする」努力や才能が足りないからだと考えざるを得ない。果たしてこのやり方のままでいいのだろうか。現状がゼロの状態にあるにもかかわらず自らをマイナスだと意識付けるのは、ネガティブに過ぎる。そう思って、最近では「ゼロをプラスにする」ことに動機を持ち、なおかつそれを実行することが出来る人間になろうと思って、そういう風に意識して行動したりしています。難しいですけどね。ゼロの状態から何かプラスをつくり出してそれを自分の生きがいにしてくってのは。でもそれができて初めて本当の自信がつくんだと思います。
 こう見えて自分案外まともなんで誤解しないでください。w
追記
 最近地震とか台風とか、やたら災害が起こるので、家にこもりがちです。この前は祇園祭宵山に行ったけど。何で台風とかぶるかなぁ。
 ともあれ今年の夏休みは楽しまないと・・・就職活動もあるけどね。その前にテストがあるけどね。
追記の追記
 こういうヒエラルキーのことをスクールカーストって呼ぶんですね。いいネーミングですねはじめて知りました。

*1:だから今もリプトンの紙パックの紅茶は大好きです。特にアップルティー