フュージョン物語

 この時期にあほかと思われるかもしれませんがバイクがほしくて仕方がない。フュージョンがほしくてほしくて仕方が無い。これから就活で馬鹿ほど金を使うのは目に見えてるし乗る機会も絶対確保できなくなるに違いない。しかもビグスクかよDQNの乗り物じゃねーかww何を血迷った、と思われても仕方が無いし反論のしようが無いのですが、それでもフュージョンがほしい。なぜなら、フュージョンを愛してしまったから。俺はもうフュージョンなしでは生きていけない。こいつを抜きにしたらほかのうまくいくことも決してうまくいかなくなる。
 俺、1回生の終わりごろから、3回生の春まで乗ってたんよ。フュージョン。京都に来て、街中にバイクがたくさん走っているのを見て、田舎者心にでかいバイクがほしいと思って、後にかわいい子乗せて走れたらなぁ、というバイク乗りとしては不純な動機も手伝い、なんとなく荷物入れれたほうが便利よね、別に早さは求めてないし、ビグスクいいなーと思って、でもマジェスティとかフォルツァとか横綱に乗ってるみたいで嫌だし、そこで目にとまったのがフュージョンだったわけさ。フュージョンやべぇ。俺と同じ1986年生まれのくせして。何でこんな化石が今まで生き延びてるんだ。四角い。かくかくしてやがる。テールランプどんなとこついてんだよ。どれだけローテクなエンジンなんだよ。何でちょっと未来ぶって背伸びしてデジタルメーターとかついてるんだよ。そして気がついたら俺はフュージョンに惚れていた。これは恋だった。間違いなく。
 単車の免許をとって05年の末に念願のフュージョンを購入して、大阪方面やら、琵琶湖一周やら、近場に小旅行に一人で出るようになっていた。否、一人ではなかった。俺はフュージョンと旅をしていたのだ。
 独特の取り回しにもすぐに慣れ、2回生になって、幸いにして後に乗ってくれる人も現れ、フュージョン大活躍のまま夏が来て、そうこうしている間に秋になり、後ろに乗る人がいなくなった。冬もフュージョン俺の嫁だった。晩秋の候には、俺の運転が感情的になるばかりにいっぺん派手にこけた。そのとき俺は危うく自分の「もうひとつの」嫁さえも失うところだった、と思った。ごめんよ、だめな運転手で。俺の不甲斐ないせいでぼろぼろにしてごめんな。こいつだけは失ってはいけない、と心に誓った。フュージョンを直すついでに色を黒から銀にした。何か今までよりも垢抜けた感じになったが逆に気に入った。07年になり、メキシコに1ヶ月留学している間フュージョンはお留守番だった。どれだけメキシコの砂漠をフュージョンで駆け抜ける夢を見たことか。日本に帰ってきて俺は真っ先に、フュージョンに乗った。また今年も春がやってくる。フュージョンと過ごす春。徐々に殺伐としだした日常にあっても、そのことを考えるだけで俺はなんとなくまだ希望を持っていられた。
 しかし、終わりは呆気なかった。ゴールデンウィーク。俺はいつものように嫁を走らせていた。風は穏やかで、片田舎の国道をひたすら進んでいた。ゴールデンウィークだったので道はどこまでも混んでいた。
 目の前が真っ暗になった。朦朧とした意識の中で俺は何が起こったかわけがわからなかった。目が覚めたら救急車の中だった。そこで初めて、俺は事故に遭ったんだと思った。8:2で向こうの責任。もらい事故だった。近くの病院に搬送された。頬の骨にひびがいったものの、幸いほかの箇所は打撲とすりきずですんだ。頭は痛かったが立って歩くこともできた。フュージョンも何とか走ることはできたが、ダメージがでかすぎた。フュージョンは、保険屋の査定により廃車扱いになった。そして俺の手元には20数万円の保険金が残った。病院に通いつめて保険金ぼったくろうなんていう元気なんて、残っているはずもなかった。
 フュージョン復活はそのときからの悲願となった。保険屋との手続きが終了したのとほぼ同時期にはバイク屋に新しいフュージョンを探してもらっていた。ほかのバイクに乗ろうという考えは毛頭無かった。事故ったとはいえまだ使えるパーツもあったし、何よりここで乗り換えるのは何か理不尽だし妥協している気がした。ヤフオクで探してもよかったんだけど、バイク屋とのよしみもあったので、バイク屋に任せることにした。しかしなかなかうまくは見つからない。今年は排ガス規制で生産中止になったバイクが多く、フュージョンも例外ではないという。しばらくバイク屋に任せていた俺だったが、なかなか見つからないようで、就活も迫っていてこのままだと乗れないまま卒業することもありえない話ではないという危機感を抱いた。そこでバイク屋に連絡して自分もいいフュージョンを探すことにした。←今ここ