「接近しつつあるDQNとオタク」の小考察

 そう、上記4つの現象には共通点がある。それは、リアルな社会において「低俗」とされているいわばDQNな文化と、アニメ・コスプレといったいわゆるオタクな文化が共存していることである。
 俺は、最近起こっている、このようなオタク文化DQN文化の融合現象が不思議でならない。何故このようなことが起こるのだろうか。
 オタク文化DQN文化は、本来混ざり合うことは無いように思われる。両者とも互いの存在は嫌悪の対象だったはずである。それが最近になって両者の距離は、徐々に近づきあるようにさえ思えるのだ。むろん、両者の嫌悪感情が消滅したわけではない。もっぱら文化としてのDQNとオタクが、近づきつつある。
 理由はいくつか考えられるだろうが、やはりDQNとオタクが結びついた大きな理由のひとつは、ウェブなのではなかろうかと思う。
 それまでは、

上図のように2つの文化は断絶された状態にあり、その中で繰り広げられるコミュニケーションもその文化圏内の閉じたものでしかなかった。

そこにblog、検索エンジンSNSyoutube、ニコ動などが現れ、情報をフラット化していく。それぞれの文化にまつわるあらゆる情報はそれぞれの文化受容者の手から離れ、閉じた文化圏からインターネットを介して拡散していく。そこにあったさまざまな意味づけ*1は一旦相対化・解体され、それぞれの事象のもつ記号だけの状態で一般化され、流通することになる。
 このことによって、文化としてのDQNとオタクの相互理解が進み、両者の持つ象徴的なクールな部分を媒介することにより、オタク文化DQN文化は接近することにつながった、と自分は考えるが、もちろん理由はそれだけではない。
 DQN文化が、もともと「リアル」な社会において「低俗」な文化であったこと、これ自体もまた理由のひとつである。
 80年、90年代ぐらいまでなら、チャンプロード、ビーバップ、コギャルなどに表象されるようなDQN文化はリアルに対抗するサブカルチャーとしての役割を十分に果たしていたかもしれない。「DQN」が社会的に脅威だった時代というのが存在していたわけだ。
 しかし現代においては、彼らDQNサブカルチャーを標榜することができない。彼らは、リアルにとってコントロール可能であるがゆえに「リアルの周縁者」「リアルな力に飼いならされた存在」としての立場をとらざるを得ないのだ。なぜなら彼らの活動の場は、もっぱら現実世界だからである。
 現代におけるDQN文化はかつてのようなぎらぎらとした脅威性、サブカル性を取り除かれ、コントロール可能な単なるネタ、ファッションに成り下がってしまっている。
 では現代のサブカルチャー何処に軸足がうつったのかというと、紛れも無く、卑劣極まりない匿名と容赦ない罵詈雑言と小児性愛の巣窟たる2chを中心に据えた、「ネットの中」ではなかろうか。現代の日本におけるサブカルチャーは、秋葉原発のアニメ、ゲーム、フィギュア、コスプレといったオタク文化がその中心を取り巻くように存在している状態だと思う。
 ・・眠いので若干分かりづらい文章を書いてるかもしれない。

無理やりまとめると、

メインカルチャーの「周縁」である「DQN文化」と、現代サブカルチャーの中でも「にわか」でとっつきやすい「アニメ文化」、いわばメインとサブの文化の端っこ同士が、デジタルメディアによって結びついた結果が、「長島☆自演乙☆雄一郎」だったのではなかろうか」
ということである。

寝ます。
追記:本文若干補足を入れました。

*1:ex)暴走族のアウトローなイメージ・アニメのネクラなイメージなど