京都から地元に戻ってきた田舎人ですけど田舎つまんないです。

田舎は機会あふれる都会から商業的に取捨選択の上発信された、画一的な2番煎じで成り立ってるよという話です。
もっと身もふたもなく言えば、田舎は流行おくれだ!っていう話です。
田舎は好きだが、それでも東京を選択する。 - ミームの死骸を待ちながら

 この記事のおらこんな村いやだ的な内容はまさに身にしみてわかる。自分は大学4年間を京都で過ごし、その後公務員として、言葉を借りれば田舎度の高い地方、つまり地元に舞い戻ってきたわけなんだけど、そんな暮らしが始まって早1ヶ月、なんていえばいいのか、だんだん自分の角が取れてる気がしてならない。やりたいことはそれなりにあるんだけど、自分と周りの波長が合わない。周囲はばーさんとじーさんと主婦とDQNしかいないんだもの。それはちょっと言い過ぎかも知れんけども、ともかく自分のやりたいことや自分の価値観が、周りの人のそれと共鳴していない印象を受ける。
「良い意味・悪い意味の双方で世界が狭い」とid:Hash氏が指摘するように、田舎の人々の興味の関心はおおむね自分たちが属するコミュニティ内の話題に向けられていて、「内々で円満にやりましょうよー」的な、なんとも言いようのない画一的な価値観・内輪なノリ・同調圧力が、そこにはある気がする。

田舎なので、もちろん何もない。あるのはただただ田んぼと、道路と、集落と、山と、静寂と、狸の死骸と、マイカルのような大きな商業施設である。公共交通機関が発達していないので車移動が主流である。バス移動の人は、おおむね高齢者か、障害を持った方ぐらいのものである。

都会のように街に出れば興味深い出来事に出くわすわけでもなく、すごい将来のビジョンを持った人間に出会えるわけでもなく、今まで見たことないような面白いイベントがそこかしこで行われているわけでもない。幸いインターネットというメディアのおかげである程度地理的な障壁は克服でき、田舎でも同程度のフレッシュでニッチな情報が手に入れることができるようにはなってきたけど、リアルな田舎社会には、まったくそれが反映されているような気配がない。それはなぜなのか。


そもそも田舎の人は日常生活で、フレッシュでニッチな情報に出会う「機会」がないからである。

id:Hash氏曰く

まず第一に取り上げたいのは、東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。

ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。

習い事を始めるとしたら教室、勉強会やオフ会をやるとしたら参加者が集える場所、バイトするなら勤務地と職種と時給。何か買うにしても、手にとって見ることの出来る大型店舗が重宝する。その全てにおいて、そしてその全てを同時に満たしうる環境として、東京に勝る場所はない。

そう、別に特段何かの「目的」がない人であっても、とにかくさまざまなジャンルの店や人がひしめく雑多な繁華街を歩いていさえいれば、どこからともなくさまざまな「機会」が発信されていて、すぐさまアンテナに引っかかるのだ。まるでテレビをつけてさえいればさまざまな情報が向こうからやってくるのと同じように。
都市はその意味で、大きなプッシュ型メディアとして作用しているように思うのである。都市生活者にとっては都市そのものがひとつの大きなメディアなのである。
そしてその中で興味を持った「機会」にその人の「目的」が付与されて、それがゆくゆくは新たな「機会」の発信地となっていく。とにかく都市におけるこうした「機会」→「目的」のプロセスが相対的に田舎にはないのである。
それを補い「機会」を地方に送り届けているのがテレビ等マスメディアということになるだろうけど、むろんそれらマスメディアは、都市に散らばる無数の「機会」を全て網羅できるわけはない。その情報は良かれ悪しかれ、主だった情報、メインカルチャーよりに絞られる。
地方にある大きな商業施設にしたって、所詮都市で享受できる「機会」が擬似的商業的に再現されてあるだけであって、都会のようにイレギュラーな「機会」が偶発的に降って沸く、ということがありえない。


そうした、フレッシュでニッチな情報に出会う「機会」がないので、田舎の人はインターネットが発達し、情報が以前よりフラットにいきわたるようになっても、それを享受するにいたっていないのではないか。そうした情報は、その情報を知っている人にしかアクセスされない。そんな状態なので田舎の人は何を買うにしても、どこに行くにしても、選択肢は都会の人よりも少ない。流行のファッションにしても人々の価値観にしても、どう転んでも田舎は画一的にならざるを得ないのである。文化がない、とでも言おうか。



そしてそれは、画一的な価値観から外れた人に対する不寛容をも意味している。うちの地元では「調子に乗る」こと、つまり「周囲と調和のあわないことをする」ことをするのはご法度である。俺の高校のころとか本当にひどかった。

PS ちなみにここでいうイレギュラーな機会とか、フレッシュでニッチな情報って言う文言が何を想定して書いたかって言うと、いわゆるクラブシーンのことなんですね。4年間の中で、テクノやらハウスやらが京都のクラブでかかってて、まぁその楽しさを十分味わって地元に帰ってきて、同期にその楽しさを伝えても、みんな「クラブ?ヤスタカ?なにそれおいしいの?」状態だったので僕は愕然としてしまって、しかも若いヤンキーはみんなハイエースに乗りながらビーボーイファッションでヒップホップ聴いてるし、そこに価値観的な不和を感じてしまって。

人がいないから仕方がないのかなぁ。いずれは俺もこの閉鎖系な狭い世間の価値観の中に和気藹々とうずもれていくのだろうかと思うと、なんとなく未来がない思いではある。