何が正論か見えにくくなっているのはあるかもしれない
今何かと香ばしいと評判の「池田信夫 blog はてなに集まるネットイナゴ」をコメントもひっくるめ読みました。ネットイナゴと言う概念そのものが僕にとっちゃ新しかったしうまい言葉だなと思いました。以下産経新聞引用です。
昨年あたりから、「祭り」に群れ集う人々に対して「ネットイナゴ」なる言葉が用いられるようになったが、「ネット右翼」として若者の右傾化に関連付ける議論よりは、よほど適当な表現に思える。イナゴには悪意も善意もない。あるのはただ食欲のみだ。ネット界のイナゴも、「祭り」を消費せんとする貪欲(どんよく)な食欲こそ本質だろう。「事件」の枠を超え、こういうある種自然現象的に考える視点があれば、批判もより的を射たものになったかもしれない。
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専門家も2ちゃんねらーも、いわゆる総表現社会層もひとくくりにして匿名性あふれる言説空間に放り込んでしまうのがBLOGなのかもしれません。匿名性には功罪両方ともあると僕は思います。まったく肩書きのない世界では、その人を評価する基準って言うのは言葉の質でしかありません。炎上なんて状態はいい発言も悪い発言もどろどろに溶けたごった煮の状態でその人にごそっとやって来るような状態で、それをイナゴでひとくくりにするほうもするほうかもしれませんが、その人を理詰めで支持するにしろ、理詰めで罵倒しているにしろ、そこに祭の効果でくっついてきたネットイナゴが論調全体をなんとなくぼやかしてしまうって事はあると思うし、そうなるとネットイナゴとして全体をひとくくりにしたくなってしまう気持ちもわからないでもないです。*1ひとは「祭られた」ときはたいがい火消しにはしるもんで、強硬的な策*2に出がちになります。そこで、真に良い意見も悪い意見も一緒くたに葬られてしまう。そこで日記を消さずに踏みとどまれる人ってのが強いし、成長するのかもしれませんが、まぁまず面白くないことに変わりはない。で、そういう殺伐とした世界に嫌気がさした世の女の子は鍵付のSNSに住んで、googleにも、へたすりゃそのSNSの検索にも何にもひっかからない世界で仲間うちに向かってぬくぬく発言する。「なんか、歪んでるなぁ」って言うのは素人目でもわかります。いや、これが歪んでいる状態なのか、正しい状態なのかさえわからない。何がネット言説空間のあるべき姿なのか、僕も良くわからないままでいます。