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最近ブログかいてなくて申し訳ない。メリークリスマス。
形骸化する「大学自治」に代わるものとは?
ネオリベ化する公共圏 壊滅する大学・市民社会からの自律
明石書店2006年 すが 秀実, 花咲 政之輔 著
- 作者: すが秀実,花咲政之輔
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2006/04/20
- メディア: 単行本
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この本によれば、かつての大学は、ミシェル・フーコーの言う「規律/訓練型」の体制が、それなりに円滑に機能していた場であった、という。つまり、かつての日本的資本主義との相互補完的な市民闘争を通じて、「平和と民主主義」の精神を持った「良き市民」観を形成するための場として、大学が存在していたというのだ。大学自治はまさにその延長線上に存在していたものであり、それはしばしば全学連運動や全共闘等の学生紛争として、ラディカルな形で表面化していたといえる。
この本が問題にしているのは、現代の大学における、そうした「規律/訓練型」の学生自治的な公共空間の機能不全である。この機能不全の根本の原因となっているのが、社会のネオリベラリズム化であり、「規律/訓練型」社会から「監視/管理型」社会へのグローバル規模なシフトである。そして大学も今や、学生による「規律/訓練型」の自治から、大学による「監視/管理型」の統治を採用している点を筆者は指摘する。
つまり、今や大学の秩序を作っているのは大学自身なのである。早稲田大学の事件に話を戻すと、大学の方針に反対する者を大学の教職員が捕らえたのも、大学教職員が大学によって管理された存在だからである。かつてならば、大学の中に警官が導入されることなんて言語道断だったはずである。
学生の自治会・サークル、あるいは教授会は現在ももちろん存在しているが、それらは今や大学によって監視/管理される存在であり、規律/訓練型の自治が行われているとは言いにくい。「すでに明らかなように、現在の大学は自治的に規律/訓練する組織の存在を必要とはしていない。むしろそのような存在は新しい監視/管理型の大学にとっては邪魔なのである」。
「学生自治」を大上段のスローガンに毎年行われる学生大会も、現状は学校が生徒の要望を聞くための場としての役割以上の機能は果たしていない印象を受ける。そもそも学生自治という言葉のもつ意味が今や薄っぺらなものになっている。
しかし、こうした監視/管理型の体制を、学生も教職員も内面化していることもまた、否定できないことは事実である。今やポストモダンと呼ばれる時代の趨勢の中で、大きな物語の終焉が叫ばれ、イデオロギー対立もまた終焉を迎えた現代において、この本の主張にあるような、かつてのような規律/訓練型の自治をそのまま当てはめるというのは無理な話だと思う。かつてのような「規律/訓練型」の大学運営の方法論はもはや成り立たない、というところから、議論を始めなくてはならない。
「監視/管理型」の権力というのはそのまま「環境管理型」の権力と言い換えることが出来るだろうが、そうした、誰もが「権力に飼いならされた存在」*1たる現代において、権力への異議や不満申し立てはどのように行われうるか、非常に考えさせられる本であった。
MAD+CMに感じる新しいプロモーションの形
どうも。最近ニコニコ動画に自作のMADでも挙げられたら楽しいんだろうなぁとか思ってます。
それでもうpしようとしないのは、別にやる気が無いわけじゃなくって、パソコンのスペックが足りないからなんです。ほんとパソコン買い換えたいぜ。来年度には買い換えよう。
前フリはおいといて。
おもむろにニコ動を見ていると、今日のデイリーランキングにあがってる動画になんとなくティンと来てブログ書いてるんですけど、
今日のランキング、第5回音mad晒しイベントの動画が結構あがってたのですが、
などなど、やたらテレビCMを素材にしたものが、まるで示し合わせたのかなぁってぐらい上がっていて、にやっとしてしまいました。*1
我田引水理論で申し訳ないのですが、常々、MAD作る時にテレビCMを素材にしたら好都合なのになーと思ってたんですよ。そうしたら作る側は著作権侵害で削除される心配もないし、ユーザーはテレビで見たCMを違う形でたのしめて面白いだろうし、CMの商品を出してる企業としても思わぬプロモーションになるしいい事尽くめじゃないか、と思ってたんです。
もちろんCM素材を使ったものはそれまでにもいっぱいありました。ニコニコ3大宗教たる、教祖ドナルド、魔王ヴェルオリ、そして魔女練音ルネ。これらの動画もなんら消されること無く人気を博している。俺教祖様見てからマクドナルド行く回数確実に増えた気がするもん。w
そういう意味で今回の第5回音mad晒しイベントはかなり面白いなー、有意義だなーと思ってみています。
この動きをさらに盛り上げるにはどうしたらいいか。
先に反面教師を挙げておくと、ちょっと前にニコ動でやっていた、きのこの山のキャンペーンじゃないでしょうか。これは盛り上がらなかった。少なくとも俺の中では全然印象に残らないまま終わっていった感があります。ニコ動の中で、一企業と組んで、限られた素材のなかで、コンテストするからみんな作ってねー^^って言ってもなかなか乗り気にはならないと思うんですよ。素材が限られてる分作られる作品の幅もおのずと狭まっちゃうことは間違いないし、そうなってくると、意外性がなくなっちゃう気がするんです。「そうきたかぁ〜・・w」みたいな。
むしろ俺が望むのは、シンプルでインパクトがあって汎用性がありそうな、いわば「素材」として使えそうなテレビCMがもっと増えてくれればいいのになぁ、ということです。
実際ドナルドもねるねるねるねも、素材として使えたからこれだけのMADが作られることになったわけですし、これからそういう基準でCMを「さりげなーく」作ってくれる企業乃至広告代理店とか現れないのかなぁとか思っています。「さりげなーく」って言うのがミソです。恣意的なものは多分忌み嫌われるでしょうから。
とにかくこの傾向はなかなか面白いので、もっと面白くなっていかないなぁとか思ってます。
そのほかの動画たち
*1:紹介した以外にもあったらごめんなさい><
「接近しつつあるDQNとオタク」の小考察
- 続々と「パチンコ台」化される「エヴァ・アクエリオンなどのアニメコンテンツ」
- 「エアロのついたスポーツカーやミニバン」にアニメのキャラをあしらった「痛車」
- 「初音ミク」のコスプレをした「アニヲタのキックボクサー」「長島☆自演乙☆雄一郎」
- 「メイドのコスプレ」を身にまとった「珍走団」
そう、上記4つの現象には共通点がある。それは、リアルな社会において「低俗」とされているいわばDQNな文化と、アニメ・コスプレといったいわゆるオタクな文化が共存していることである。
俺は、最近起こっている、このようなオタク文化とDQN文化の融合現象が不思議でならない。何故このようなことが起こるのだろうか。
オタク文化とDQN文化は、本来混ざり合うことは無いように思われる。両者とも互いの存在は嫌悪の対象だったはずである。それが最近になって両者の距離は、徐々に近づきあるようにさえ思えるのだ。むろん、両者の嫌悪感情が消滅したわけではない。もっぱら文化としてのDQNとオタクが、近づきつつある。
理由はいくつか考えられるだろうが、やはりDQNとオタクが結びついた大きな理由のひとつは、ウェブなのではなかろうかと思う。
それまでは、
上図のように2つの文化は断絶された状態にあり、その中で繰り広げられるコミュニケーションもその文化圏内の閉じたものでしかなかった。
そこにblog、検索エンジンやSNS、youtube、ニコ動などが現れ、情報をフラット化していく。それぞれの文化にまつわるあらゆる情報はそれぞれの文化受容者の手から離れ、閉じた文化圏からインターネットを介して拡散していく。そこにあったさまざまな意味づけ*1は一旦相対化・解体され、それぞれの事象のもつ記号だけの状態で一般化され、流通することになる。
このことによって、文化としてのDQNとオタクの相互理解が進み、両者の持つ象徴的なクールな部分を媒介することにより、オタク文化とDQN文化は接近することにつながった、と自分は考えるが、もちろん理由はそれだけではない。
DQN文化が、もともと「リアル」な社会において「低俗」な文化であったこと、これ自体もまた理由のひとつである。
80年、90年代ぐらいまでなら、チャンプロード、ビーバップ、コギャルなどに表象されるようなDQN文化はリアルに対抗するサブカルチャーとしての役割を十分に果たしていたかもしれない。「DQN」が社会的に脅威だった時代というのが存在していたわけだ。
しかし現代においては、彼らDQNはサブカルチャーを標榜することができない。彼らは、リアルにとってコントロール可能であるがゆえに「リアルの周縁者」「リアルな力に飼いならされた存在」としての立場をとらざるを得ないのだ。なぜなら彼らの活動の場は、もっぱら現実世界だからである。
現代におけるDQN文化はかつてのようなぎらぎらとした脅威性、サブカル性を取り除かれ、コントロール可能な単なるネタ、ファッションに成り下がってしまっている。
では現代のサブカルチャー何処に軸足がうつったのかというと、紛れも無く、卑劣極まりない匿名と容赦ない罵詈雑言と小児性愛の巣窟たる2chを中心に据えた、「ネットの中」ではなかろうか。現代の日本におけるサブカルチャーは、秋葉原発のアニメ、ゲーム、フィギュア、コスプレといったオタク文化がその中心を取り巻くように存在している状態だと思う。
・・眠いので若干分かりづらい文章を書いてるかもしれない。
無理やりまとめると、
「メインカルチャーの「周縁」である「DQN文化」と、現代サブカルチャーの中でも「にわか」でとっつきやすい「アニメ文化」、いわばメインとサブの文化の端っこ同士が、デジタルメディアによって結びついた結果が、「長島☆自演乙☆雄一郎」だったのではなかろうか」
ということである。
寝ます。
追記:本文若干補足を入れました。
全力で叩いて間違ってたのなら、全力で謝るべきだろ
大阪・梅田で会社員の鈴木源太郎さん(30)が車にはねられ、約3キロ引きずられて死亡した事件で、インターネットの掲示板で犯人扱いされ、顔写真まで掲載された被害者の男性(23)が6日、「つらいっすよ。なんか陰険すぎますね」と心境を語った。
5日午前、インターネット掲示板「2ちゃんねる」に、この男性が吉田容疑者だという誤報が流された。男性が約2年前に勤務していた大阪・梅田のホスト時代の源氏名と顔写真の画像、さらには携帯電話の番号にメールアドレスまでがさらされた。
午後2時頃、男性が携帯電話をチェックすると、非通知着信が約50件に、知らないアドレスのメールが約30件。「殺人鬼は死刑になれ」「死んでわびろ」といった誹謗(ひぼう)中傷の内容だった。
現在は大阪市内のショットバー店長を務める男性は、同店オーナーから「ネット上に画像を載っけられて犯人扱いされている」と知らされ、驚いたという。
男性は「やってないことで非難され、気持ち的に落ちてくるし…」とやり場のない怒りを感じている様子だった。
俺はいつかこういうことが起こると思ってたんだよね。最近炎上やら晒しやらやたら目に付いてて、まぁそれも2chにはつき物みたいなもんだからなぁとか思ってたんだけど、今回ばかりはひどいな。
2chでこのスレについてたコメントも大概ひどい。「ひどいなお前ら」「あやまっとけよ」「晒した奴が死んでわびろ」系はまだいいんだけどさ、基本的には我関せずな雰囲気が漂ってるんだよね。
叩くときには2ちゃんねらーを挙げて総力戦!の様相を呈しているようなもんだが、それが一転、相手が冤罪だと分かると「いやー2chって本当にひどいとこだよねー^^」「インターネットってひどいねー^^」ってそんな簡単に手のひら返せるのか?って思った。それはさすがにひどいだろう。
なんかもうそうやって都合のいいときだけ群がってる2ちゃんねらーの野次馬根性あるいは飯うま根性が心底いやだね、俺は。
全力で群がるのは大いに結構だ。が、何故謝るときには全力で謝れないのか。
匿名性に覆われた空間では、日常じゃいえない事をずばずば言ってしまうのはもはや仕方が無いことかもしれない。けどだからといってそれを確信犯的に他人を糾弾、炎上させる道具に使ってるだけだと、匿名性の持つ危うさをかえってマスコミやら何やらに糾弾されて2chねらーの地位をさらに貶めることにつながりかねないことぐらいわかるだろうに。
もうひとつ言うと、今回のように炎上の矛先が「個人」に向かってる状況って言うのはやっぱりいたたまれない。権力のあるマスコミやら既存のエスタブリッシュメントにたてつくために、批判を展開するのならいくらか建設的だと思うけど、「個人」に向かった時点でそれはリンチじゃん、って思うのよ。で、その「個人」が悪いことをしたのが明らかな状況だ、ってならまだ溜飲も下がるかもしれないけれど、今回みたいに勝手に勘違いされて勝手に罵詈雑言の限りを尽くされて、挙句には我関せずな態度、っていうのはあまりにもいたたまれない。
繰り返しになるが、匿名性の持つ力を確信犯的に他人を糾弾、炎上させる道具に使ってるだけだと、2chねらー自らの首を絞めることにつながりかねない。
数年前だったか、折鶴を折って平和記念公園に寄付しようって言うオフがあったと思うんだけど、最近そういったオフをめったに見かけなくなった。それぐらいの誠意でもって今回の被害者には謝ることが必要だと思う。
全力で叩いて間違ってたのだから、全力で謝る。そりゃもう叩いてたときと同じぐらいかそれ以上のエネルギーを費やして謝るべきだ。それが、人間としての筋なんじゃないの?
あるいは2chねらーはすでに群集化してしまって制御できないものなんだろうか。
そんなことをぶつくさいいながら今日も2chを見る俺。
関連エントリ
オフ会を考える
今急ピッチかつ危機感ゼロでSOTSURONをしています。テーマが2chとその周辺あたりだったのですが、いろいろ資料あたってみてもいまいちピンと来ないので、テーマを変えようと思います。
僕自身の興味が2chそのものよりかは、「ネットとリアルの関係」みたいなところにあるなー、と思ったので。
ネットの中でのコミュニケーションによってリアルなコミュニケーションがどのように変容するか、あるいはどのような影響があるのか。その逆も然り。
掲示板、mixi、blog、ミニブログ、いろいろネットを介したコミュニケーションありますが、それぞれリアルな世界との接続の仕方は異なっているし、また、世代性別友達関係など、各人がどのような「リアル」に置かれているかによっても、もちろん「ネットを介したコミュニケーション」に対する受容のされ方は違ってきますし、その他様々な状況は違ってくると思うんです。
そういう事を前提にして、今調べてみたいのが「オフ会」です。
今まで、見ず知らずの人々が物理的な制約を超えて互いにつながりあうことって、文通以外なかったと思うんですよ。なので、オフ会という現象は大変新しいものであるし、ネットコミュニティとリアルコミュニティの相関関係をしる上で良い指標になるんではと思ったんです。
仮説としては
○どういう人がオフ会に参加しやすいか
- 共通の目的意識があるとき(集団自殺、育児)
- リアルな社会で強い紐帯を持たないとき
- リアルにおけるマイノリティ(周りに仲間のいない変わった趣味の人)
人々はオフ会に参加しやすい
○ネットメディアの特性によってオフ会は
mixi>>>ミニブログ>blog>>結婚案内サイト>>>>出会い系サイト>2ch>>自殺サイト
○マスメディアによって出会い系、2ch、自殺サイト辺りがネガティブに報道されるので
- オフ会(もとい、見知らぬ人がネットを介して出会う行為全般)に対する警戒心はパソコンやケータイを日常的に利用してない人ほど強いと思う。(そうでもない気もする)
かなり時間はないですがアンケートも取れたらとりたいです。
はてなハイクの方々が結構オフ会してらっしゃるので(メールで送ってもらう形で)そこでアンケートをとれればとりたいです。学生にもアンケートをとろうと考えていますがおそらく学生はリア充ばっかりなので「オフ会行ったことがある」という人は少量じゃないかなというのが心配です。
こんな感じで進めますよ。ってかSOTSURONってこんなんでいいのかなぁ・・・。
あと2ヶ月だよー。時間ねぇよー遊びたいのに!